清々しい新緑の風を肌で感じながら、このままそれが続けばいいなと。
しかし、気温は少しづつあがると共にうっすら、肌とシャツの間にこもる
湿気に嫌気をさす。
清々しいとは裏腹に、休みの日なんか家から出たくない。
そんな時に限って、旧友の祝があって駆け付けようかどうしようか悩む。
しかし、齢も40を超えてくると、あの頃の旧友は何をしているだろうか。
あの人は何をしているんだろうか。
1時間でいいからお茶を濁してみたい気が起きてくる。
少し遠いけど、会いに行ってみよう
でも、自分なんかが行っては邪魔じゃなかろうか。
そんな思考が頭をよぎる
実際、会いに行ってみると楽しいものだ。
会ってよかった。そう思える。
私がお店を始めてから数人の高校の同級生がわざわざ北海道から会いに来てくれた。
その思い出は一生忘れない。
千歳市に住む同級生のASは、東京出張のついでにお店に遊びに来てくれた。いろいろな話を交わして最後に一緒に写真を撮った。その写真は店のホームページに載せた。
ハードディスクにしまい込んでしまうと、見つけらんなくなっちまうしね。
ちょいちょいHPを更新している時に目に入るのが嬉しい。
それから7年経って、最近北海道の母の家に帰るとASの父が遊びに来るようになった。私の母の旦那さんの趣味仲間らしい。
同級生のMKは札幌に住んでいるのだが、旦那さんのお母さまが狛江に住んでいるという事で、ついでに遊びに来てくれた。女子でお店に遊びに来てくれたのは初めてだ。
こうして、誰かに会いに行くって、会える事って嬉しい事だし面白い。
私たちは、天国(そういわれる次元)に住んでいる時、「そうだ、時空旅行しようぜ!」って話しになって、時空ツアーに参加した。
乗り物であるこの「身体」を生成させて意識をそれに上手いことリンクした。
ただ、条件があって、身体と意識をリンクしてゆく上で、天国という時空にいた時の記憶は消される。
たまーに処理間違いで記憶も残ることが有ったり無かったり。完全に消すことは不可能らしい。
現世(という時空)で身体が完全体になり熟し始めるころ、天国で一緒だった仲間に現世出逢うと、なにか懐かしい感じがしたり、無性に会いたくなったりする。それが消しきれなかった記憶だ。
現世にツアーで来ているのだから、この地球を丸ごと味わっていかなきゃ勿体ない。
この身体という乗り物は、痛み辛みを感じられる特殊な機能が備わっている(天国にいるときは痛み辛みは無い)
だから、誰かと会って、うれしかったり、泣いたり、別れたり、抱きしめ合ったり、
時には、乗りもしない大型バスの免許取ったり、絶対キャンプしないのにキャンピングが―作ってみたり、アホな事せなあかん。
天国(という時空)に帰った時に、その記憶を目の前に並べて、あれは面白かっただの、辛かっただの仲間とお話しするのがこれまた楽しいんだ。
ちょっと難しい話をすると、仲間というか自分なんだけどね、これは理解できないようにプログラムされているから、帰ってからのお楽しみ。
故に、この世は辛い方が面白い。
例えると、雨って靴が濡れるし髪の毛もクルクルするし、絶対嫌じゃん。
でもね、人に見られないところで頭がおかしくなったように、雨の中に裸足で飛び出して思いきりずぶ濡れになってみて。雨降る空に向かって思いきり口をあけて叫んでみて。シャンプー持ってたらそのまま頭洗って。
清々しいから。
実は「辛い」と感じているのは自分で、「幸せ」と感じればそれは幸せになる。
話しは脱線したが、今週末、電車に乗って誰かに会いに行ってみよう。
飛行機に乗って、誰かに会いに行ってみよう。
ここまで読んでくれてありがとう!
GOTA