2023年、6月3日の夕刻
地下にある12坪のBAR。
少し高い所にある小さな神棚に祀られた天照大御神に見守られ、私は、私たちは御祭りを開催することが出来た。
祭典の催しの1つ、音楽ライブも無事に済み、今回試験的にMOGURAのアコースティックデュオにプラスして、わたしのパーカッションと、お手伝いでベーシストを混ぜてバンド形式で行った。様子は私のInstagramにて割愛させて頂く。
13席あるカウンター席も、補助席を出すほど、テーブル席もまんべんなく埋まっている状態。そして私がいつも気にしている、全てのお客様が誰かと会話をしている状態も保たれ、店の真ん中にトイレまで続く導線の延長線上、壁際に置かれた小さな木製の補助椅子に私は独りで座り、トールグラスに注がれた一刻者の炭酸割りを少し口に含み、余計な空気を抜いてから喉に流し込んだ。
時間がゆっくりと流れて行くのが身体で感じ取れる。
歳をとったのか、境地や窮地に立たされる場面で、実はふぅっと一息つく癖が出てきた。その緊張感がやけに心地よいのだ。
9年前は違った。
地に足がついている感覚もなく、目は回り、脳は限界値を超えて死んだ。そして時間が特急列車の窓の景色の様に流れていった。
未だにわからないのが、なぜ私はこの地で、この場所でBARをやっているのか。
その事については、この9年間ずうっと研究した結果、多分なんらかの大いなる存在が自分を通して何かをしようとしているのがわかった。もっと簡単に言えば、大いなる存在から仕事を与えられた。だから私はその事にに仕えてるだけ。
とは言っても、順風満帆にはいかない事の方が多い。
次から次へとやらなくてはいけない仕事が永遠に続く。
そんな忙しい時に限って、妻より鍼灸院への送り迎えを頼まれたりする
つい先日まで、忙しい私に、さらに仕事を持ってくる妻に対して怒りを覚えていた。妻の野暮用に付き合わされて、本業の仕事が出来ないとなると、それはそれで売り上げが下がるかもしれないが、その責任は妻に有ると考えていたのだ。
それが3年を超すあたりで、気が付いたことがある。
私は大いなる存在にも仕えているが、妻にも仕えている事が理解できた。
妻に仕え、天に仕え、妻のご両親兄弟にも仕えて、それをひっくるめて仕事なんだ。
天や妻、家族に仕え、その仕事をまっとうすれば、食えなくなることは無いのだ。
そして、それらの仕事ひとつひとつに向き合うようになって、好転しだした。
買ってからしばらく放置されていた本、「なんのために働くのか」北尾吉考を最近手に取りこの考え方が間違いないものだと確認した。
満席御礼の店内を小さな補助椅子から眺め、そんなことを考えていた。
先にも書いたが、法人化したことであらゆる経費が増え、覚悟しなければいけないことがだいぶ増えた。しかしそれらの大半は仲間やスタッフを守るための手続きが多い。
普段の経営者ならば、出費は押さえたいものだが、そこで易経から得た山沢損。
損は先に払っておくべし。
ここまで読んでくれてありがとう
GOTA